2013年1月 上子島、改修のはじまり

2013年1月某日。上子島の集落は、溶け残った雪に包まれていた。前日に、日本各地で降った大雪。平地では翌日に溶けてしまった雪がこの山あいの集落ではそこかしこに残っていた。だんだんの田畑にはとりわけたくさんの白い雪。日差しが淡くところどころ茶色い土がむき出しになった景色が寒々しい。


ぼくがはじめて上子島を訪れたのは2012年の7月。うだるように暑く、家は背よりも高い藪に覆われ、草にのみこまれんばかりだった。緑がカッと燃え、ギラギラとした夏の熱気。それがいまは草は茶色く枯れきって白い雪に覆われている。家の景色は半年前からすっかり様変わりしていた。



事務的な手続きを経て本格的に家の改修がはじまったのが12月。家を取り囲むようにはびこっていた藪が刈り取られ、それだけでも見違える。草がなくなると家の裏手からは上子島の集落がすっきりと見渡せた。眺めの良い風景。



改修の作業にあたっていたのは三人。enaファームの青木さんと、青木さんのお父さん。西吉野の農家さんで働く一郎さん。青木さんのお父さんは、いまは現役を引退しているが、もとは古い日本家屋を中心に手がける大工だった。宮大工のような仕事に近い。ふつうの工務店に相談すれば、取り壊すしかないといわれるこの家を改修できるのは、青木さんのお父さんの技術と知識があればこそである。マンパワーとして改修を手伝うのが一郎さん。一郎さんは「開墾の職人」。奈良に来る前から、農業系の仕事に長年従事していて、実務の能力はピカ一。改修作業の頼もしい助っ人である。

青木さんのお父さんは、家のそこここを指さしながら
「いい家だねえ」
「金持ちの家だ」
「いまではこんな家は作れないよ」
としきりに褒めた。
素人目にも立派な家であることは分かるが、どことは言えない部分を具体的に教えてもらう。天井裏に見える柱や梁はもちろんのこと、この家は構造に使われている材がどれも立派だ。たとえば、縁側の上に走る梁は、はしからはしまで継ぎ目のない一本の丸太。長さはおよそ八メートルほど。節が少なくまっすぐで美しい材は、このあたりだと吉野材だろうか。



柱や梁の構造には、釘は一本も使われていない。ほぞで組み合わせたり、竹のくさびで固定したり、昔ながらの手法である。ふすまの上に渡るさんも、優に40センチを超える。



床の間に使われた材は黒檀。とびきりの高級木だ。あがりかまちの石材もほかにはなく立派である。梁にははしばしに、立派な家紋の鋳物が取り付けられていたが、残念ながら数個をのぞいて、取り外されていた。





外はぽかぽかと陽射しのさす天気だったが、家の中は陽が入らず、暗い。とくに南側には窓がなく、光をさえぎるようになっている。これは古い家では当たり前のことなのだという。日本家屋が陽射しを嫌う。陽が当たると、畳が焼けて、材木が反り、ブカブカになってしまう。家を長持ちさせるためには、陽の当たらないところにたてた方が良い。そうして建てた家は、家の外よりも中の方が寒く感じた。この家なら夏もずいぶん涼しく過ごせるだろうと思う。



母屋の方が門や離れや小屋よりもいたみは少なかったが、台所はいたみがはげしかった。昔の土間をつぶして、現代風のキッチンに改装した台所は、床をはがすとボロボロ。ほかの場所では問題のない柱が台所だけは腐っていたりと、もともとのつくりにあわない和洋折衷を強いたせいだろうか。湿気にやられた改装箇所が古い箇所よりはやく駄目になっているのが皮肉だった。



今日の作業は家に残った不要品の掃除片付け。重曹で建具や木の部分を洗い、きれいにするところから作業ははじまる。田舎の家によくあるように、この家も不要品にあふれていて、捨てても捨てても物があった。改装した台所の床をはがし、もとどおりの土間にする。たてつけが悪い部分のゆがみを直す。くみ取り式の便所の設置。座敷を切って囲炉裏をつくる。風呂場には、別注の伊賀焼の風呂釜を入れる。まだくわしくは決まっていないが、冬の暖房には、まきストーブのようなものの導入を考えているそうだ。母屋の修理が終わってから、離れ、入り口、納屋、と順に補修する。することは山のようにあるが、それもまた楽しみのひとつである。今年の四月に人を迎えられるようにするのを目標に作業はつづく。